第11話 「高森事件」不当弾圧反対闘争
★1960年代の解放同盟山口県連
一九六一年三月一九日、山口市の県労働会館で解放同盟山口県連の第一二回大会が開催された。参加支部は一二支部、代議員は六三名が出席し、社会党及び共産党が祝辞を述べた。新役員は委員長金本謙次、副委員長松村一・松橋清人、書記長山本利平を選出。
翌四月三〇日に部落解放同盟光支部結成大会が光市の村崎義正宅で開催された。支部長に小野寛、書記長に村崎勝利、会計に福山和夫を選出。村崎義正・村崎勝利・村崎修二は兄弟、村崎太郎は村崎義正の息子である。この支部結成には丸岡忠雄も参加していた。
この頃の部落解放同盟山口県連合会は「県下の同盟員を根こそぎ集めても五〇名に達しない、寒々としたもので、支部組織と呼べるものは美弥市・秋芳町にあった支部くらいのものである」「ほとんどの部落が同和会に制圧されて」いる状態であった。
そして、一九六一年九月から一〇月に展開された部落解放要求貫徹請願隊員として、村崎義正が参加して全国の運動の状況を体験する。翌年、一九六二年五月一三日には山口市の県労評会館で第一三回大会を開催。同時期、各地で部落解放同盟と全日本同和会との相違点が鮮明となる。
★周東町議差別事件への不当逮捕
一九六二年一二月から解放同盟山口県連東部地協が玖珂郡周東町で闘ってきた国原正照町議の差別事件を契機とした行政闘争に対して、事件終結後、九ヶ月を経た一九六三年八月二三日に警官一五〇人を動員して「監禁、辞職強要、不法侵入などをおこなった」として県連常任の村崎勝利はじめ九人を不当逮捕した。一二日間投獄した後、村崎義正(三〇歳)、村崎勝利(二三歳)ら四人を起訴した。
不当弾圧に対して県連は「八・二三高森事件不当弾圧反対闘争委員会」を結成して闘った。この背景には「とくに玖珂郡下は同和会一色に塗りつぶされていた。県下最大の人口をもつ周東町高森□□□部落でも、わずかな改善費をエサに町当局と同和会のもとに眠りこまされてきた」(『解放新聞』二六六号)地域に、解放同盟の影響が及んだことに対する不当弾圧と考えられた。
★総決起集会と県交渉
九月二一日には山口市地区労会館で福岡・佐賀・熊本・鳥取・広島・高知・岡山からも代表が応援にかけつけ四〇〇人の参加者による「不当弾圧粉砕民主主義擁護、部落解放要求貫徹山口県総決起集会」が開催され、集会後に県警・検察庁・県庁にむけてデモ行進を行い、県庁では庁内デモが行なわれ、デモを終えて古谷県民労部長と対県交渉に入った。
長時間交渉をもったが同日は結論が出ず一〇月四日に再交渉を約して団交は打ち切った。
一方、県行政は一九六二年八月に県・県教育委員会連名で『山口県同和事業の概要』を、一九六三年三月には山口県教育研究所が『同和教育を進めるために』などを発刊する。
この高森事件不当弾圧反対闘争は、一九六四年三月に初公判が行なわれ一九六八年四月まで闘われ、判決は一二の罪名中、一一が無罪になった。