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【現状】

1993(平成5)年の県の調査によると、同和地区は県内56市町村中34市町村に91地区あり、地区全体の世帯数1万5355世帯、人口4万2905人、うち部落関係人口は32.4%で、県人口に対する比率は0.89%である。

規模別では300世帯以上が3地区、160〜300世帯が4地区、100〜160世帯が6地区、50〜100世帯が13地区、50世帯以下が65地区と、少数点在型の特徴を示し、山陽側の下関、宇部、徳山などの一部の都市型部落を除けば、ほとんど農村型部落である。

就業形態は兼業農家と基盤の弱い零細業者が多く、中高年者に不安定雇用労働者が比較的多い。若年層においては生活基盤の確立した職場への就職が多くみられるようになってきた。

就労形態をみると、有業者のうち雇用者は76.9%、そのうち常雇は63.1%、臨時雇9.1%、日雇4.7%となっており、常雇の割合が高い。(常雇の全国平均は同和関係58.5%、一般65.0%)

差別事件は公務員(教師を含む)、民間企業、地域社会に限らず時として発生するが、これらは氷山の一角であり、潜在的な差別事象はかなりの数に上るものと推測される。

山口県における同和問題解決への施策として、啓発と同和教育、同和対策事業が実施されているが、それぞれの歩みのなかで着実に成果が表れてきている。とくに環境改善等の成果が顕著で、不良住宅や消防車の入らない狭い道路などは、ほとんど解消された。(宮本 誠)

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【前近代】

近世初頭の慶長9(1604)年、山口町・岩国町において皮屋の人々が町はずれの荒蕪地に移転隔離され、被差別集落<垣之内>が形成される。その後、17世紀半ばに藩の民衆統治制度が整備されると、それに伴い被差別民統治の体制もできあがる。すなわち、斃牛馬処理権の画定、それに対応する特牛皮上納制度の成立、<穢多>という差別語の使用初見はすべて17世紀半ばのことである。

長州藩の部落寺院は4ヵ寺あったが、その中核的寺院は摂津本照寺の掛所として17世紀半ばに設立された。

18世紀、商業資本の伸展により藩財政が危機に陥り身分制も弛緩するようになると、武士支配の維持・強化を狙って藩は被差別民の統制を強化する。そのころ、牛馬の皮や骨が商品として全国的流通網に乗るようになると、長州藩内では牛馬皮骨の積み出しに対する農民の妨害が相次ぎ、やがて天保2(1831)年にはそのことを契機とする大百姓一揆が起こった。天保一揆は藩の産物取立策という収奪強化に反対する農民の階級闘争であったが、一方では、<穢多騒動>といわれる部落襲撃を伴っていた。こうした苛烈な被差別体験のなかから部落の人々の解放への希求は高まり、身分制度への消極的抵抗である脱賤行為も増加し、また、徳山藩では、禁令を出さざるをえないまでに農地の所有が進んだ。さらに被差別身分の人々が自らの団結によって自律的に解放をかちとろうとする解放闘争の萌芽もみられるようになる。

幕末、長州藩は攘夷戦争を行うための兵力が不足していたので、農民・町人などを兵士に採用、封建制度の兵農分離原則が崩壊していった。

この動きのなかで被差別民の兵士登用が実行され、<穢多の名目さし除かれ>ることが約束された。
慶応2(1866)年の幕長戦争に際して、維新団・一新組・山代茶筅中という被差別部落民のみで構成された部隊(屠勇隊と総称)が編成され、実戦に投入された。(布引敏雄)

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【近代】

1886(明治19)年、徳山の河野諦円は中学校における差別事件をきっかけに部落改善運動を開始する。すなわち、部落の環境を改善し、人格の向上に努め、勤倹貯蓄の生活を指導した。とくに生活を支えるための協同組合事業に力を注いだ。また、軍隊内差別事件にも抗議し師団長に謝罪させている。

明治末から大正期にかけて政府が地方改良運動を展開すると部落問題はようやく行政の視野のなかに入り、山口県では田子一民の推奨などもあって、徳山の河野諦円、山口町の金本新平、防府の国弘半治兵衛、久賀町の土辺喜代蔵らが地方改良功労者として表彰されている。

部落改善運動のための組織としては全国的には1913(大正2)年、山口県出身の僧 岡本道寿が奔走して帝国公道会が組織され、県内では18年、河野諦円らによって防長親和会が設立された。徳山で社会事業に携わっていた赤松照幢は、20年、部落内に居を移して部落改善運動に乗り出したが翌年急逝した。

大正期には行政や部落上層に主導される部落改善運動に対する反発もしだいに生まれ、16年の熊毛郡白鳥神社氏子差別事件、21年の『徳山新聞』差別記事事件などは、これまでの改善運動に飽き足らず新しい運動を求める動きであった。22年3月の京都における全国水平社の創立大会には小郡町の柳井伝一・下枝主税・森岡数雄の3人が出席し帰郷の後、山口県水平社の結成をめざす活動を開始した。

翌23年5月10日、山口県水平社創立大会が小郡町において開催され、県内各地より1500余の人々が集まった。山口県水平社の委員長には小郡の中野義登が推され、当日の議長は白鳥神社氏子差別事件を全国に訴えた隈井憲章が務め、小郡の藤野良雄、高森の野島伊助らが熱弁をふるった。のちに同愛会理事となる河上正雄も出席している。この大会に参加した人々は郷里に帰ると水平社の結成に取り組み、23年末には山口県内に50余カ所の水平社が結成された。

山口県行政の部落問題への取り組みは、18年の米騒動の先例を受けた後、21年に県庁内に社会課が設置されたときに始まる。新設社会課の融和事業(地方改善事業)については嘱託の姫井伊介(労堂)が指導的役割を果たした。山口県水平社結成以後、県内に水平運動が広がると、県行政はそれに対抗するために、23年5月、地方改善に関する告論を発し、24年には融和運動団体・山口県一心会(はじめ山口県融和促進会)を結成。一心会の会長は県知事が務め、事務局は県社会課内に置かれた。実質的な指導者は姫井で、機関誌『心光』(1926年10月創刊。28年第6号まで)を刊行し、大正期には社会啓発中心の活動を行った。

山口県水平社および県内各地の水平社の活動は主目標を差別糾弾におき、23〜24年末の約1年間で、糾弾件数は100件を超えたという。これに対して官憲は弾圧をもって臨んだ。たとえば24年、厚東村水平社では福島勝一らが暴行を働いたとして逮捕投獄されたが、これはまったくのでっち上げであった。創立時の山口県水平社の指導的立場にあったのは下枝主税ら小郡町本部の人々で、機関誌『防長水平』(創刊の年月日不明。現在、1924年1月の第2巻第1号から26年6月の第2巻第11号まで合計18冊を確認)を刊行し運動を指導した。

時代が昭和へと移り労働運動・農民運動が激しく展開されるようになると、水平運動家にも労働運動の指導者を兼ねる新しいタイプの人々が台頭してきた。その代表格宇部の田村定一・下関の山本利平の2人である。

昭和恐慌期の融和事業・融和運動は啓発事業に加えて<経済更生・内部自覚>を目標とし、部落住民をも組織内に組み入れようとしたため、水平社運動と激しく対立することとなった。そのための新しい運動の担い手育成のために、30(昭和5)年には一心会青年連盟も結成された。

青年を中核とする融和運動実践としては松木淳・大浜亮一・桂哲雄らによる久賀町の島光社の活動がある。32年度より政府が地方改善応急事業を開始して従来の数倍の融和事業予算を計上すると、融和事業・融和運動は活気づいた。融和教育についても、31年に<融和問題解決の為教育教化関係者の努力すべき事項>が決定され、学校教育・社会教育の両面における融和教育が開始された。

これに対して水平運動は沈滞化したが、29年高森町軍隊宿舎割り当て差別事件、36年には山口第42連隊差別事件などを糾弾、他方では全国水平社の部落委員会活動方針にのっとり、34年には下関において地方改善応急施設費獲得闘争が山本利平の指導で闘われた。全国的な取り組みとしては、33年の高松差別裁判糾弾闘争、35年の佐藤中将糾弾闘争などにも積極的に参加している。

戦時下では、水平運動も融和運動もともに戦争協力の姿勢をとった。山本利平は40年に部落厚生皇民運動に参加し田村定一らと対立したが、やがて両者とも融和運動と協同歩調をとるようになる。

姫井伊介は37年に皇民会を組織して水・融合同の露払い役を務めていた。当時、融和事業は資源調整事業や満州移民事業を推進していたが、山口県では島光社の指導者桂哲雄が、40年に満州開拓団<山口村建設計画>を立案し、部落の人々を率いて <満州> へ渡っている。41年6月、中央融和事業協会が同和奉公会に改組されると山口県一心会も8月7日、同和奉公会山口県本部へと改組された。(布引敏雄)

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【戦後の解放運動】

戦後の部落解放運動の再建は、1949(昭和24)年7月17日、吉敷郡小郡町で結成された部落解放全国委員会山口県連(委員長・柳井政雄)に始まる。50年に防府市向島漁業組合長の差別発言、52年には県立高校長の結婚差別事件が起こり、解放委県連はただちに県と交渉をもち、県教委に<教育目標や教育方針を成文化>することを約束させる。同年10月、初めて県の<同和教育基本方針>が示された。

これらの差別事件の糾弾中、委員長の柳井らは組織にはからず、裏で行政や当事者と話し合い<円満解決>を画策したため、金本謙次や山本利平との間に確執が生まれた。53年7月17日、第6回部落代表者会議を柳井派は柳井の自宅で、金本派は山口市の万徳寺で開催。金本・山本派は柳井を除名するとともに中央へ報告。同年8月には10日、12日と続いて宇部警察署巡査の差別事件が発生。9月22日、金本委員長を先頭に部落住民と宇部興産宇部窒素工場や宇部曹達労働組合の応援を得て市行政と交渉を展開。<宇部警察署の徹底的民主化と責任の追及>ほか5項目の要求書を提出して闘う。

10月の衆議院選挙で、柳井らは中央の指令に反し自由党候補を応援したため、中央本部より除名処分。このため柳井は12月に<山口県部落解放連合会>を結成。以降、柳井と金本・山本の両派はことごとく対立。これを憂慮した県民生部長のあっせんにより54年10月、<山口県部落連盟>を結成。両派から1人ずつ、中立から1人代表委員を出すとともに、対立する両派の代表者である柳井、金本、山本を顧問に据えることで決着した。その後、両派は思想的に相反し、再びたもとを分かつ。55年中央の名称改称と同時に、部落解放全国委員会山口県連合会を<部落解放同盟山口県連合会>と改称。60年柳井は自由党の友好団体である<全日本同和会山口県連合会>を結成し会長となる。

戦後の解放運動は、県や市町村の行政交渉とともに内部の対立抗争に明け暮れた。さらに69年の矢田教育差別事件で、共産党の方針に従って部落解放同盟中央本部の方針を受け入れない山本利平書記長の除名問題などの曲折を経た後、69年12月16日の第18回大会で中央本部との関係を回復した。

70年代は、大学の入試要項に身体障害者に対する差別表現が記載されていたため県連が抗議し改善させる。また、県内中学校、郵便局などの差別事件への対応と処理。

77年11月山口県部落解放共闘会議を結成。80年代は、85年10月部落解放基本法制定要求山口県実行委員会を結成。つづいて第12回部落解放西日本夏期講座を開催。同時に<『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議(同宗連)>を結成。さらに90年代に入り<同宗連>の現地学習会や、菊川町の差別戒名墓碑据え替え法要実施など宗教者との連帯をはかる。(松浦憲二)

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【戦後の行政・教育】

同和行政の県機関は、1952(昭和27)年労働民生部社会課同和係、67年労働民生部同和対策室、73年民生部同和対策課、97(平成9)年民生福祉部を改組し健康福祉部人権対策室を設置。同和事業については単独県費補助事業を56年に開始している。県知事の諮問機関としては、国の審議会より7年早く、山口県部落問題対策審議会が54年に設置された。

県における同和教育の取り組みは、52年県教委社会教育課成人教育係からスタートし、第1次同和教育基本方針を策定。つづいて60年には第2次基本方針が策定された。70年に社会教育課に同和教育係を設置するとともに第3次基本方針を打ち出す。72年同和教育振興室、73年同和教育課設置とともに山口県同和対策推進大会を開始。94(平成6)年第4次基本方針を策定。95年以降毎年1回同和問題啓発フェスティバルを開催している。

高校奨学資金については、部落解放同盟山口県連の激しい闘争の結果、国の制度によるもの(1966年)より3年早く、貸与であるが、63年から単独事業として実施されている。このように取り組みが進展する一方で、公開授業のなかで<明治になって新平民が設けられた>などと、歴史的事実に反する内容の授業が行われるという事件が起こった。

また88年6月には、県教委同和教育課が開いた研修会で、学校での同和教育実践として取り上げられた実例のなかに部落の<惨めさ>のみを強調したものがあり、問題化した。問題となったのは生徒の作った紙芝居で、四民平等を取り上げた個所で士農工商の下に<その他>の人が<上半身裸の腰みの姿>で描かれていた。これらの事件は<部落の人たちはかわいそう><部落に生まれなくてよかった>と思わせてしまう県内の同和教育の弱点を示すものであり、同和教育の取り上げ方について一石を投じることとなった。

なお、県内の部落生徒の高校進学率は、83年、93年でそれぞれ88.4%、93.5%(県全体は96.0%、96.6%)と、格差は数ポイントに縮まった。しかし大学の進学率は19.1%、23.8%(県全体は34.5%、35.8%)と、格差は依然として縮まっていない。(宮本 誠)

布引敏雄『長州藩部落解放史研究』(三一書房、1980)/広田暢久・利岡俊昭「山口」(『部落の歴史』西日本篇、部落問題研究所、1983)/柳井政雄『同和運動の歩み』(同和会山口県連合会、1992)『部落問題・人権事典』(解放出版社、2001年)より

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お問い合せ/連絡先
部落解放同盟山口県連合会 〒753-0814 山口市吉敷下東2-4-7
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