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第7話 戦後・解放委員会山口県連と松本治一郎

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敗戦から半年後、一九四六年二月一九日に京都で部落解放全国委員会が結成された。県内では同年三月に部落解放全国委員会山口県連合会が結成され、委員長に下枝主税、副委員長に金本謙次、書記長に山本利平、幹事に松村一が選ばれた。

同年四月一〇日の衆議院議員選挙には、解放委員会から田村定一(社会党)と山本利平(共産党)が立候補し田村が当選。

続く一九四七年四月二五日に行われた衆議院議員選挙では、山本利平と田村定一が立候補したが二人とも落選。同日に実施された参議院議員選挙では部落解放全国委員会の松本治一郎委員長が当選(全国区)。県内では六五三四票を獲得、初代参議院副議長となる。

また、参議院議員に「融和運動家」姫井伊介も当選(地方区)、山口市議会では解放委員会から一名が当選。この頃、山本利平は日本共産党山口県委員会委員長を務めていた。

さて、組織だった解放委員会の活動は一九四九年七月一七日に山口市・信光寺で県連大会を開催し開始され、事務所は山口市内に設置。大会では委員長に柳井政雄、副委員長に森岡数雄・大中緑、顧問に金本謙次・山本利平・田村定一、会計に藤井環、青年部長に吉本五郎を選出した。

ここで柳井政雄(一九〇八~一九九八)が登場する。当時、柳井は山口市議会議員であり、一九五五年からは県議会議員(一期)を務めた。

◆防府市漁協組合長差別発言事件
翌年、一九五〇年五月二一日には防府市向島漁業組合長が、遊説中の山本利平(参議院選挙候補者、共産党)に差別発言を行なう事件が発生。県連が取り組みをおこなう。

その後、全国的には一九五一年一〇月から京都で「オール・ロマンス」差別事件糾弾闘争、一九五二年二月には和歌山で「西川県議」差別事件糾弾闘争が展開され、その闘いの中から「部落に対する行政の停滞」を追及する差別行政反対闘争が始まる。

◆松本治一郎が山口市・宇部市で演説
このような状況の中で、一九五二年四月三日には山口市陶公会堂で松本治一郎委員長を迎えて県部落代表者会議を、夜は照円寺で講演会を開催、翌日は吉敷郡東岐波村及び宇部市厚南で講演会が行なわれた。

この時、宇部市厚南で撮影された集合写真には、松本治一郎・柳井政雄・山本利平・田村定一らが写っている。こうして県内の部落解放委員会組織は着実に拡大していくが、日常的に根強く部落差別は存在していた。

◆小野田高校校長結婚差別事件
例えば一九五二年五月に小野田高校A校長の息子と山口市の某官庁に勤務する被差別部落の娘が恋愛をしていることが公然化した時、A夫妻が被差別部落出身であることを理由に一方的に絶縁を迫った事件が起きた。

五月一八日に県連代表は知事と会見、二六日には教育庁の立ち合いでA夫妻と会見したが「反省は見られなかった」と県連は受け止めた。闘いの最中、六月二七日には「同和教育について」と題する文部省次官通達が出される。