第9話 山口県部落問題対策審議会の設置
◆県庁前で3日間座り込み
除名された柳井派は一九五四年一月一七日に小郡・信光寺で二百名を結集し、第一回の山口県部落解放連合会の会合を開催した。会合では会長に柳井政雄、副会長に国弘義人・秋里兼一、書記長に吉本五郎を選出した。
一方、一九五四年三月一八日から金本派は「県政にみなぎる差別予算をぶち破り、県費を部落民の生活条件をたかめるために斗いとろう、と、斗争委員会を確立、県庁まえへの座りこみをはじめ全県下の部落民の要求を知事につきつけた」(『解放新聞』六六号)、そして三日目の二〇日夜には県内の各労組、民主団体も支援にかけつけ「かがり火をとりまき」「歌声」「デモ」を行ない、二三日には県労協藤村委員長が知事に抗議した。
◆県「部対審」設置を約束
こうした状況の中、県は同日午後四時に交渉を再開し①「当初予算にとらわれず、要求は追加予算で積極的に組む」②「政策の審議機関として部落問題対策審議会を設置」すると回答した。
この間、柳井派と金本派は対立していたが、一九五四年一〇月一九日に山口市松田屋で団体名を「山口県部落連盟」とした新たな統一組織を結成した。
その結果、一九五四年一二月三日に小澤太郎知事は「付属機関の設置に関する条例」第二条の規定に基づき、山口県規則第七七号として「山口県部落問題対策審議会規則」を定めた。
会長は副知事、副会長は労働民生部長が務め、委員は県議会議員・部落代表者及び部落問題に関係ある官公庁の職員ならびに学識経験者のうちから知事が任命した。こうして、戦後における県内での本格的な部落問題解決の取り組みが始められた。
◆解放委員会から解放同盟へ
組織活動では一九五五年一月二二日、小郡の信光寺で山口県部落連盟第九回大会を開催し、委員長・柳井政雄、副委員長・国弘義人、書記・秋里兼一を選出した。同第一〇回大会は四月一九日に宇部市の信行寺で開催され、柳井政雄が委員長に再選された。
しかし、金本派は一九五五年に入ると再び柳井派と対立した活動をおこなう。組織は分裂から統一、そして再分裂することになった。
この時期、一九五五年八月に大阪市で開催された部落解放全国委員会第一〇回大会で、部落解放全国委員会は部落解放同盟と改称。この年、いわゆる「五五年体制」が確立し、一九五六年七月の『経済白書』(経済企画庁)には「もはや戦後ではない」と書かれた。
金本派は部落解放同盟山口県連合会(事務所は金本謙次方)として一九五七年三月一八日、山口市労働会館で二年ぶりに松本治一郎委員長が参加し第八回県連大会を開催。金本派が部落解放同盟中央本部につながる組織として認められた。
翌年、一九五八年一月に東京での「部落解放国策樹立要請全国会議」で自民党政調会長・三木武夫が「部落問題は国策として取上げるべきである」と発言。自民党が動き始める。