第4話 「高松結婚差別裁判」糾弾闘争
◆世界恐慌と軍国主義
1929年の世界恐慌により、被差別部落も経済的に疲弊してくる。 そんな中、山口県水平社は1930年10月に山口県水平社大会を小郡町本部で開催し38名が参加、委員長に中野治介を選んだ。
この時期、多くの被差別部落大衆は差別事件が発生した時は水平社に結集し、融和事業・融和教育の実施については山口県一心会を相談窓口とした。
そして1931年9月には「柳条湖事件」が起き、日本が軍国主義の道を歩み続ける中、1933年6月3日に高松地方裁判所で2人の被差別部落の青年に差別判決が出された。
◆部落を隠したと結婚誘拐罪
この事件は検事及び裁判所が「身分の黙秘を誘拐行為と曲解し」「結婚誘拐罪」とした解放運動史上に残る有名な差別判決である。
全国水平社は1933年10月に博多を出発、東京をめざす請願行進隊を組織し、大衆闘争を展開。ついには仮釈放を勝ち取るなどの成果をあげ、この闘いにより、再び各地で水平運動が再組織され活発になった。
この差別裁判糾弾闘争において山口県水平社の田村定一は、1933年8月に高松市の県公会堂で開催された香川県部落民大会に松本治一郎、藤原権太郎・北原泰作・田原春次らと弁士として登壇、同年8月に大阪市でおこなわれた全国部落代表者会議に参加している。
◆県内各地で演説会
山口県内でも再び組織が活性化、県水平社からは山本凡児(山本利平)が請願隊員として参加した。パンフレット『請願隊は如何に闘ったか?』(全国水平社静岡県連・発行)には「山口県の第一声は下ノ関市」の被差別部落の「公会堂にあげられ、一度其の報伝わるや一時に四十部落が立ちあがり」「志相糾合して闘争委員会を組織大活動した」と書かれている。
また、1933年8月22日付『差別裁判糾弾闘争ニュース』第4号にも、下関市での演説会が8月5日に開催され、その後、「長府・宇部等で演説会を開き、一路地方委員会の確立に向かって邁進している」と報じられた。
前記した8月28日の全国部落代表者会議までに山口県内では1130名の署名が集まった。近県の広島が405名、岡山が130名、全体が16102名であった。
◆水平社長門地区協議会
この頃、水平社長門地区協議会は下関市・美弥郡・大津郡・豊浦郡・厚狭郡で組織され、1934年3月10日付『全国大会準備闘争ニュース』第1号に6ヶ所の支部活動が紹介され、ある座談会について「ここには初期以来コツコツと今日まで少しも変わらぬ信念で戦い続けてきた老人がゐる。
昨年夏の県代会議にも青年の先頭に立って」参加し、「老人の宅で座談会を開いたら30戸しかない部落だのに70名もの人が集まりスバらしい盛会であった」と会場の雰囲気を伝えている。