第3話 宇部水平社と田村定一
宇部水平社創立大会
厚狭郡宇部村は近代になり炭鉱採掘とともに人口が急増し、1921年には村制から町制を経ずに市制に移行した。
山口県内では下関市に次いで2番目の市として宇部市が誕生する。その3年後、このマチにも水平運動が起こる。
つまり、宇部水平社創立大会が1924年2月9日に新川小学校講堂で開催されたのである。
大会では委員長に藤村喜助を選出した。その宇部水平社に、田村定一(1902~1966)がいた。
田村定一は髪を短く刈り丸いメガネをかけて口髭と顎髭の伸ばした風貌であった。
田村定一は1924年7月10日に舟木町舟木劇場で開催された山口県水平社臨時大会(委員長・柳井伝一)で、開会を宣言し決議を朗読している。また、1925年10月7日に宇部市宇部クラブで開催した山口県水平社臨時大会においては、大会開催前の宇部水平社に対する官憲の弾圧や分裂策動を排して大会の成功をめざし活動した。
宇部水平社委員長
その後、田村定一は宇部水平社委員長として1929年3月1日に開催を呼びかけた新川座での宇部水平社大会でも活躍している。
同大会のポスターには、「福岡連隊の○○裁判の暴露」「一切の賤視差別をなくせよ」などと書かれ、弁士として「全国水平社総本部理事泉野利喜蔵君・沖野松石君」「全九州水平社連合会理事田中松月君」の来援が予定された。来会者は800余名であった。
宇部市議会議員
また、田村定一は社会大衆党中央執行委員として無産運動に携わり、1929年11月の宇部市議会議員選挙では28歳で初当選。
同時期、田村定一を指導者として宇部水平社は借家人組合全国同盟を組織し住宅問題に取り組んだ。
さらに、1930年12月に大阪市天王寺公会堂で開かれた全国水平社第9回大会では、各地方情勢報告の中で田村は山口県代表として、「運動は下火になってゐたが、最近頻発する軍隊の宿舎割当事件その他の差別問題によって盛り返って来た。各地に座談会を開いて再建拡大の為に闘ってゐる」と述べた。
宿舎割当事件
ここでの「宿舎割当事件」とは、1929年11月の第5師団秋期演習時に玖珂郡高森町の町長が、被差別部落を宿舎割当から排除した差別事件のことで、地元では物品不買・税金不納・小学児童同盟休校戦術で差別糾弾闘争を展開し1年後に「一応」の解決をする。
田村定一は県外でも活動し、全国水平社第7回大会、第8回大会、第13回大会、第14回大会、第16回大会で全国水平社中央委員に選出されている。
戦後は1946年4月の衆議院議員選挙で、田村定一(日本社会党)は衆議院議員として初当選した。