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第2話 山口県水平社機関誌 『防長水平』

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第二回山口県水平社大会

山口県水平社が創立して約三ヶ月後、1923年8月28日、第二回山口県水平社大会が防府町成海寺で開催された。呼びかけのチラシには「受動的抵こうは神の命だ」などと書かれていた。

当日の弁士は水平運動の中核を担っていた全国水平社執行委員長の南梅吉をはじめ栗須七郎、平野小剣、坂本清一郎、米田富、山田孝野次郎(少年代表)、増田久江(少女代表)などであった。  『防長新聞』は、参加者が「三千人に近い」と報じた。また、この大会では山口県水平社機関雑誌を発刊することを決定した。

早速、同年秋には『防長水平』が創刊され、3号目の1924年正月増大号の発行部数は4千部であった。その後、『防長水平』は1926年6月号まで発刊されていたことが確認できる。


組織拡大と県当局

初期の山口県での水平運動は被差別部落の資産家による財政的な援助や、地縁的なつながりによる団結力により被差別部落を基盤として組織を拡大していく。

一方、この時期に県当局は水平運動を警戒しながらも「部落問題」を放置することができなくなる。

県は1924年3月に官民合同の「山口県融和促進会」を創立。

同年8月に「山口県一心会」(県社会課内)と改称し活動を開始。

1926年10月には機関雑誌『心光』(発行者・姫井伊助)を創刊した。

水平運動への不当弾圧
同じ時期に官憲は「厚狭郡厚東事件」糾弾闘争を闘った福島勝一(厚東水平社委員長)ら4名を1924年7月4日に不当に拘束し、懲役6ヶ月から10ヶ月の有罪判決とした。これが山口県における水平運動に対する不当弾圧のはじまりであった。

彼らは山口刑務所に収監され1925年秋に放免されるが、列車での帰郷時には夕刻の宇部駅前に提灯を持った多くの水平社の人びとが出迎えた。水平運動は多くの大衆に支持されていた。


下関水平社と「衡平社」

また、県西部でも水平社は活動を展開し、下関水平社は1924年に『関門水平新聞』(月刊)を創刊している。

そして1924年9月の第2号には、大阪府水平社の糸若柳子(当時二三歳)の「賤民より選民へ」と題する檄文が掲載された。各支部段階でも県外の水平社と交流があったことがわかる。

さらに、下関水平社は1923年4月24日に創立された朝鮮の被差別民〓白丁(ペクチョン)の解放をめざす団体「衡平社」(ヒョンピョンサ)との連携を求めて、1924年10月7日に下関水平社委員長・下田新一、『関門水平社新聞』発行人・金重誠治らが「衡平社」視察のためソウルを訪れている。

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