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第1話 山口県水平社の創立

一九二二年三月三日に京都市公会堂(一般的には「岡崎公会堂」)で全国水平社が創立された。
創立大会に山口県内から参加したのは、反物の仕入れのため上京していて出席することができた下枝主税・森岡数雄・柳井伝一の三人で彼らは大感激して帰郷した。
他には、寺院の息子で龍谷大学にて修行中であった佐波郡の河上政雄が参加していた。

それから約一年二カ月後の一九二三年五月一〇日に小郡町信光寺で、山口県水平社創立大会が開かれた。
その模様は『関門日日新聞』や『防長新聞』で報じられた。

「関門日日新聞』(一九二三年五月一二日付)は「県下の水平社員は勿論  大阪   奈良  京都  北九州から 社員  続々詰掛けて  参集者は千数百名   婦人会員も五六十名参加し   当日会場付近には全国水平社通信隊の自動〔注・「転」の誤記〕車十数台と風紀係も設けられて   堂の内外を警戒した壇上には黒地に赤くそめ出した荊冠旗が置かれてある   やがて定刻に至るや開会の辞に次ぎ・・・」などと書いている。

また、創立大会を主催した側からの文章としては山口県水平社機関誌『防長水平』(一九二四年一月発刊)に、「山口県水平社創立後記」が載せられている。

そこには「小郡駅に上下列車の到着する毎に    列車より吐き出さるる参集者を以って    構内は人山を築き一見  水平社専用の駅の如き観あらしめた。午前八時半頃   さすがの大伽藍を以って誇れる信光寺の仏堂も満場立錐の余地なきに至り」と喜びと感動が記されている。

「全国に散在せる部落民よ団結せよ」との幟を押し立て、一五〇〇名を突破した参集者で会場内は満員となり、 屋外にも人があふれ、定刻の午前九時には「煙火」を合図に会場も揺らぐ大拍手で大会が開始され、 司会者に中野義登、大会議長に隈井憲章を選出した。

演説を発起者代表・下枝主税、県内各地代表・河上政雄ら八人、全国水平社少年代表・山田孝野次郎、全国水平社委員長・南梅吉などが行ない午後四時半に閉会した。

続いて夜八時からは各部落代表者の協議があり午後一二時前に終わった。
この協議会で執行委員長に中野義登が選出された。

一九二三年末には、山口県内の水平社支部の数は五二カ所に及んでいる。

対策を迫られた県当局は山口県水平社創立の翌一一日、地方改善に関する知事告諭第一号を出し、一二日には内務部長より各郡市長あてに地方改善に関する通牒を発している。

すぐさま山口県水平社は各地で差別糾弾闘争を展開した。

例えば創立して三日後の一三日には、山口市内で野球の試合中に侮辱的発言があったとして示威行動を行なっている。

水平運動は燎原の火の如く全国各地で拡大していた。
山口県水平社創立と同じ日に、岡山県水平社が創立され、約二ヶ月半後の七月三〇日には広島県水平社が創立された。

文・割石忠典(全国部落史研究会運営委員)

■1922年5月12日 「関門日日新聞」(山口県水平社創立大会の様子)

関門日日新聞

■1923年5月19日「防長新聞」(差別発言に対する謝罪状が掲載 ※黒塗りは個人名)

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