部落解放運動と私 部落解放同盟中央本部書記長 松岡とおる(講演録)
解放新聞山口版 第49号 2010年5月31日
■解放運動の原点
私は現在58歳。18、19歳の時に解放運動に入った。
自分の年齢で初めて、解放奨学金が出来て、高校に行けた。姉は2歳上だが、まだ奨学金がなかったので、中学を卒業して就職した。姉が、正月に大阪に帰ってくるたびに「とおる、おまえは、高校に行けてよかったな」と言う。
彼女が解放運動に関わっていたら、どんな人生になっていただろう。「なぜ、私だけ行けないのか。なぜ、もっと勉強したかったのに、できなかったのか」、そんな姉の気持ちを読み取れる自分でありたい。
私は高校を卒業し、大学へ行きたかったが、経済的な理由で進学をあきらめ、就職活動をした。そのときに、露骨な就職差別を受けた。高校友の会で活動していた、そのことが理由。
ムラに帰ってくると、同じような立場の青年たちが、青年部を立ち上げて、一緒に解放運動をはじめた。その頃(70~73年頃)には、大阪の住吉、沢良木、高知県宿毛市、長野の部落出身の青年が、結婚差別によって自殺する事件があいついで起きた。
あの頃、私は自殺した青年たちと同じ年齢だった。悔しい思いをしてきた。あの思いはずっと忘れていない。それが自分の解放運動の原点だ。行き詰まったり、悩んだときは、その初心に返る。いったい私たちは何を目的に運動をしているのだと。
■プラカード事件
私は小学校低学年の時には給食を食べられなかった。
家が貧しく、給食費を払えず、プラカードを掲げさせられ、グランドを10周走らされた。何回も、親に「給食が食べたい」とお願いして、なんとか給食を食べた。
しかし、月末になったら、給食費を払えない。何回も続くと親に「忘れたと言え」と言われる。先生から「家に取り帰れ」と言われる。家に帰っても、給食費がないから、学校の外でぶらぶら遊んで時間をつぶす。
学校が終わってから、塀を乗り越えて、教科書を取りに行く。そうすると、教師が怒って、「私は給食費を忘れました」と書かれたプラカードを掲げさせられ、グランドを走らされる。
その時、一番つらかったのは、親の貧乏ではなく、グランドを走らされている時の、クラスの友達の態度。指をさし笑っていた。それが一番つらかった。
一昨年前、教育基本法改正の議論の中で第3条「教育の機会均等」の「経済的にも社会的にも差別されない」という文言を削除しようとしていたが、私は「経済が教育を侵害することがある」と必死に反対した。
プラカード事件の私の体験を民主党の会議で話し、だから変えたらいけないと訴えた。そんな痛みが分かる人間を国会に出さないといけない。そしたら「今でもそんな経験をした人がいるのか」と言ってきたのが鳩山さんだった。
■部落解放の議席を!
6年前、民主党から立候補したとき、秋田県の小さな村からも、2票あった。
どんな思いで書いてくれたのか、嬉しかった。今年の2月3日の参議院本会議で鳩山総理に「命を大事にする社会」とは「差別のない社会をつくることだ」ということ。
「差別の現実を見ろ」「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」と訴えた。
この日本から部落差別をなくすために立候補する。だから負けられない。
どんな政党が私たちの思いを遂行してくれるのか。解放同盟は政党の下部組織ではない。差別のない社会をつくる。
そのために7月の参議院選挙は必ず当選しなければいけない。